2007年12月16日 その3
八紘嶺再び

八紘嶺ルート安倍峠梅ヶ島温泉分岐にて(7:12) うっすらと新雪の積もった山道を登って安倍峠からの道と合流(分岐)するころ、ようやく朝日を浴びることができました。冬の日の日射は、ありがたい「暖かさ」を提供してれます。

八紘嶺への登り道から見える七面山に続く山並み。七面山は手前のピークに隠れて見えません。
しかし… もしかしたら… この山並みのどこかに… 迷い込んだ遭難者がいるのかも知れません。

朝日を受けた逆光の富士山域。西から流れてくる雪雲のなごりと、強風吹きすさぶ南東面が見えます。

雪化粧した山肌~山道を登って行きます。

道脇の笹の葉上に積もった新雪。

八紘嶺直下の笹原沿いの道で。気になる臭いは…?

八紘嶺直下には何本かの枯樹が奇異な姿で立っています。

新雪で覆われた八紘嶺の山頂(9:15~9:27)。八紘嶺の山頂は、11月22日、12月2日、そして今回と3度目です。
冬至に近い太陽は木々の陰を長く伸ばし、日差しも弱々しい限り…。休んでいると寒さが襲ってきます。

富士山の南東へ伸びる雪煙と雲(区別がつきません)は、寒気を伴った強風を物語っています。
八紘嶺からいよいよ、可能性の高いと思われる間違いルート「七面山への道」に入ります。
八紘嶺方面行方不明者捜索 4日目(2)
2007年12月16日 その2
捜索に入る前、そしてその後に必ず確認することがあります。以前、山形の行方不明者捜索でもそうでしたが、とくに山岳遭難者捜索の場合は捜索者必須の情報として気象に関する資料をできるだけ確認するようにしています。
今回の捜索は、初冬とはいえ長丁場となるため、万一に備えて途中ビバークする覚悟で望みました。捜索中の天気もさることながら、その後の予想もある程度知っておく必要がありました。
事前予想では、冬型が一時的に強まるが長続きせず弱まるというもので、捜索する山域で16~17日の天気の問題はないと判断していました。
捜索前日の夜から一時的に冬型が強まる
15日の深夜(16日)、梅ヶ島温泉手前の林道で車中泊したとき、星が出ていたにもかかわらず雪が舞っていました。そして16日、晴天の朝を迎えましたが安倍峠への林道はうっすらと雪が積もり、また登山口から上もうっすらと新雪が積もっていました。
南アルプスを越えてきた雪雲の一部からもたらされたらしいことが、冬型気圧配置と上空寒気の様子から見てとれます。
16日は冬型と西よりの風が弱まりつつある中での捜索
捜索日の16日は冬型は弱まり晴天の中での捜索山行となりましたが、風は西よりで、高層に行くほど強い風の流れていることがわかります。
途中から眺める富士山や南アルプス高峰の雪煙はその風の強さを伝えています。
八紘嶺~七面山で強い風を感じることはありませんでしたが、時々感じる風は進行方向の左(西側)から流れてきました。したがって、東斜面からの臭いはほとんどとれないことになります。
天気図を見慣れないと煩雑に見えてしまうかもしれませんが、よく見ると、上空の気温や風の様子が記載されていて、実際の天気との関連を知ることができます。
※ 天気図は気象庁資料より
2007年12月16日 その1
12月2日の捜索のあと、静岡岳連の方と遭難者ご家族との話の中で、気にかかる「八紘嶺から七面山への道」についてご家族から捜索の希望が出されました。雪が積もり始める季節となり、「これでだめなら・・・」という終結の気持を強く感じさせるものでした。
道迷いの登山者が辿りやすいルート?
私も「八紘嶺山頂が道迷い基点となって七面山の道に入ってしまった」という仮定で、地図を眺めながらいろいろ推理していました。
もし、七面山の道に入り、七面山への道だと気づかなかったらどういう心理になるか…
多分、「おかしい!」と思いながらどんどん進み、いつまで経っても「梅ケ島への分岐も安倍峠へのそれらしい道に辿り着かない…」不安と焦り。安倍峠への道だと信じていたら…
「右に下って行けば林道に出る」あるいは「右に下っていけば梅ケ島温泉の明りが見えるはず」という心理が働くかもしれません。
そういう気持ちと、「~のハズ」という心理は、焦り、疲労によって一般的に強まります。薄暗かったり、似たような形の尾根や見覚えのあるような岩や木立があればさらにそれを強化する可能性もあります。
疲労困憊してくると、「どうして!」「なぜ!」と自問しながらどんどん進んでしまうこともあります。そんなときは、ちょっとした登りも難儀で、少しでも楽な下降を選び… どんどん下っていってしまうことが多いのです。
道迷いによる多くの遭難、行方不明者は、そのほとんどが沢で発見される事実は、上記のような心理が働いているためと私は考えます。このような心理に似たことを何度か自身で経験したことがあるからです。もちろんそのときは、地図を確認しながらの行動だったため事無きを得ていますが…。
三度目の八紘嶺とその先の長い道のり
静岡市岳連のKさんと何度か意見交換し、12月16日に八紘嶺から七面山まで踏破することになりました。コース周辺で気になる部分をチェックしながら発見への手がかり(遺留物など)を探し求めます。
しかし、今回のルートは捜索としては半端でない距離と時間を必要とします。
もちろん… 脚力、体力ともに。まさに「捜索目的の健脚登山」となりました。

東京を15日の20時半に出て、わけあって預かっていた犬を厚木の知り合いに預かってもらい、厚木から東名にのって静岡へ。16日0時半近く、梅ヶ島温泉手前の林道脇に到着し、車中泊。
よく冷えた星空でしたが雪が舞っていました。冬型模様で強い寒気の入っていることを物語っていました。
安倍峠への林道はすでに冬季閉鎖となって一般車は入れませんが、今回の捜索のために静岡市岳連の方が県警からの許可をもらい、ゲートを開けてくれることになりました。さらに八紘嶺登山口から我々の車を七面山登山口(今回の下山口)まで搬送するという多大なサポートが付き、心強い限りです。
朝6時過ぎに、Kさん、Tさん、さらに市岳連のサポートの方と合流し、ゲートを開けてもらい八紘嶺登山口に向かいました。

路面はうっすらと雪が降り積もりっていました。天気は晴れていますが、かなり冷えていそうです。
支度を整え、静岡市岳連の皆さんに車をお願いし、6時49分出発しました。
2007年12月2日
11月23日の捜索を終えたあと、何の手がかりもない中、行方不明者のご家族にとっては「まだ犬が確認していないエリア」をもう少し捜索できないだろうか… という気持ちと期待が強くありました。
そして、安倍川流域の山域に詳しい静岡市岳連のKさんとご家族との間の話で、大谷嶺(おおやれい)~八紘嶺(はっこうれい)の間にある五色の頭(1859m)を中心に犬を使って再調査してみよう、ということになりました。その後Kさんと日程の確認を行い、12月2日にあらためて捜索を行うことにしました。

今回の捜索では、前回(11月23日)に下った大谷崩れを基部から登り新窪乗越を経て大谷嶺に至り、八紘嶺につながる山稜で気になるエリアをチェックして行きます。
静岡市岳連の方と捜索再び

先日下った大谷崩れのザレとガレの道を登ります。登山口から新窪乗越まで標高差600mほどあります。晴天に恵まれ視界も良好。
今回も、静岡市岳連のKさんとTさんと一緒に捜索ルートを歩みます。なお、記録用のカメラを忘れてしまったため、写真はKさんとTさんが撮ってくれたものを拝借しました。

新窪乗越から東に上ると小さなピークに至り、大谷嶺とその南の広大なガレ場(大谷崩れ)が眼下に広がります。このガレ場については、初期捜索段階で市岳連の方々によりチェックされています。

ピークを下ると大谷嶺への登り道が続きます。

大谷嶺への登りからは、先日歩いた山伏(やんぶし)が大谷崩れ西側の斜面の向こうに現れます。

大谷嶺山頂は広々としていて、南アルプス南部の山々、安倍川山域、富士山などが眺望できます。 正面の白い山は左から、赤石岳~小赤石、荒川岳(右悪沢岳)、手前右の黒っぽい山は布引岳~右笊ヶ岳。

富士山が姿を現しました。先日の捜索時から9日が経っています。

五色の頭付近は緩やかな丘状になっていて、登山道以外は深いクマザサで覆われています。道を外し、遭難者が道迷い、ビバークした「かもしれない」という想定で周辺をチェックしながら移動しました。


五色の頭を過ぎ、八紘嶺に向かう途中で一休み。

ちゃんと「耳!」と鼻と目と脚を使って「探すんだゾ!」 …余裕をもって。
Tさんは安倍峠下の駐車場まで車を移動するため、ここで別れ来た道を戻りました。

八紘嶺へ続く稜線の途中、沢に続く深い笹藪があり、少し下ってチェックしてみましたが、急斜面に密生した笹の藪漕ぎのアルバイトを強いられるだけで、何の手がかりも得られませんでした。

岳連のKさんが気になるという八紘嶺西側に広がる笹薮斜面をチャンスと入り、急な斜面をジグザグに移動するようにチェックしました。しかし、ここでの反応はありませんでした。
このあと、八紘嶺北につながる斜面でチャンスが気になる反応を示したので、下部を含めて周辺の様子を調べました。途中から反応が弱くなったため、反応を注視しながら八紘嶺山頂に向かいました。
残念ながら、ここまでの尾根周辺でも手がかりが得られないまま… 再び八紘嶺の山頂に着きました。
八紘嶺山頂からの道迷い?
八紘嶺は安倍峠からの往復登山が一番多く、それ以外では山頂を経て大谷嶺に至り、大谷崩れを下降する縦走者(あるいはその逆)が一般的のようです。日中で明るく、余裕のある登山をしていれば、ルートを誤るということは起こりにくい山と思われていますが、山頂に立っていろいろ考えると、「もしかして」という思いが浮かんできました。
地図を見てもわかるように、山頂からは尾根が三方向にのびています。安倍峠方面から往復する場合は、来た道を戻るので、まず間違うことはありません。ところが、大谷嶺から八紘嶺山頂に至り、安倍峠方向へ下る場合、南東にのびる本来の道を見ぬまま北北東にのびる道(七面山へつながる道)へ入ってしまう… ということが「ありそう」に感じるのです。
道標をよく見れば、また、地図と方向をしっかり認識していれば間違えることはないのですが、このとき(2007年12月2日時点)山頂の様子を見た限りでは、安倍峠(梅ヶ島温泉)方向の道標が明確ではありませんでした。薄暗くなっていたり、帰路を急いでいたり、焦っていたりすれば七面山への道へ入ってしまう可能性が高くなると思えました。
実は、10月下旬に七面山の道に入ってしまい、途中で誤りに気づきビバークして難を逃れた登山者のいたことを教えてもらいました。
遭難者が… この先(七面山への道)のどこかに… いるのではないか、という気がしてならなくなりました。
あくまでも… 推理、推測、仮定の一つに過ぎないのですが。
※ 道迷い事故を防ぐために、八紘嶺山頂に新たな道標が静岡市岳連の尽力で設置されました(2008年6月8日)→静岡の山と渓「道標立て」
一ノ倉沢初冬 犬のいる風景
ついこの間まで、美しい紅葉に彩られた山々の姿がテレビに映し出されていましたが、このところの寒さで高い山々は一気に白い姿へと衣装を替え始めました。
例年今頃になると、上越国境の谷川岳あたりも雪に覆われ始めます。
八紘嶺方面行方不明者捜索 2日目
2007年11月23日 その2
大谷崩下降ルート周辺の捜索
新窪乗越から急なザレ道を下り、大谷崩れの谷に入ります。この谷は全体が大きく崩れ、日々その様相を変えているとのことです。
実はこの大崩壊状態は、300年前の1707年(宝永4年)10月28日、東海・東南海・南海地震が一度に起こったといわれる宝永地震(日本の有史以来最大級のM8.4)のときの山体崩落によりつくられたものです。その大地震の傷跡が未だに残っている場所がこの大谷崩です。
この地震の49日後には富士山の南東側に大きく口を開けている宝永火口をつくった宝永の噴火が起こっています。
新窪乗越から大谷崩れに足を踏み入れると、急で崩れやすいザレのジグザグ道が続きます。この周辺は視界が良く、谷上部で遭難していれば初期捜索で発見されているでしょう。
下降ルートから谷の北側を見ると、尾根上のいくつかのピークとその間にあるコルから崩れ落ちている広大なガレ場が顕著に広がっている様子がわかります。常に崩れてくる恐れのある上部ガレ場に注意を払いながら下って行きます。
チャンスの捜索意識を刺激させるために、擬似臭(Σシュード)を利用して探させ発見させることを行いました。
傾斜の強い南側の斜面にカモシカ(写真左上)が現れました。チャンスの気がそちらに向かわないよう、強く指示コントロールしますが、しばし興奮ぎみに。
谷の傾斜が緩む標高1400m付近までくると、大谷崩れ上部から転がり落ちてきた岩の溜まり場のような堆積地になります。何時落ちてきたのか、大きな岩が樹木に引っかかるように止まっていました。
この付近からは、「道を誤りゴーロ帯に入り、怪我などで動けなくなり岩陰にいたら… 」という推理を働かせ、「もしかしたら」という可能性を考えて登山道を外れ、堰堤に向かって臭い反応を見ながら歩みました。視認捜索では発見しにくいエリアが続きます。
荒れた河原の中を行きます。人一人、どこかに潜ってしまったら… 臭い以外では探せない環境です。
大谷崩れ方向を見上げますが、下ってきた大谷崩れ本谷は左側の尾根斜面に隠れて見えません。
大きな堰堤が近づき、周辺の様子を伺いながらどこを下るか・・・ 考えます(チャンスではなく、ハンドラーが)。
「堰堤から落ちた」という可能性(仮定)も・・・ その下部~下流を確認しなければわかりません。
急なザレ斜面を下降し、堰堤の周辺も確認していきました。
残念ながら、行方不明者の足跡を見出すことはできませんでした。
ゴーロ河原から登山道に戻り、車の入れる登山口へ到着。
登山口は、大谷崩れのビューポイントとしてちょっとした観光名所にもなっています。
上で別れたTさんの車はまだ到着していませんでした。
しばらく休んだあと、林道をくだり途中で合流、朝の駐車場まで戻り本日の捜索を終了しました。
八紘嶺方面行方不明者捜索 第2日目
2007年11月23日 その1
一昨日は東京を夜間(21日22時過ぎ)に出発し、梅ヶ島手前の赤水滝近くで車中泊しましたが、昨夜は県警Nさんの計らいもあり梅ヶ島温泉に泊まり疲れを癒すことができました。
静岡市岳連のTさんとKさん連絡をとり、2日目の捜索は八紘嶺から西につながる山稜の先、山伏(やんぶし)から大谷崩れ(おおやくずれ)へのルートを辿ることになりました。
23日は予想通り捜索に問題のない晴天になりました。
朝7時に梅ヶ島温泉を出て、安倍川沿いを下降して玉機橋近くにTさんと合流、井川峠に向かう一角に車を止め、Tさんの車にKさんと乗り込んで山伏の登山口まで移動しました。井川につながるこの道は20年近く前に通ったことがありましたが、山間を徐々に高度を上げながらの長い道のりです。
静岡市山岳連盟の方と捜索
登山口を9時20分過ぎに出発、所々で嗅覚反応を見ながら山伏へ向かいました。
第2日目の捜索は、遭難者が「安倍峠から山伏山まで足を延ばした」という仮定で、そのどこかで「何らかの問題を生じ」「動けなくなった」「道に迷った」もしくは、帰路暗くなり「エスケープルート」として「大谷崩を下降」したかも知れない… そしてその途中で「アクシデント」もしくは「道を失い」動けなくなった… といういくつかの可能性を推理して、その周辺エリアを捜索してみる、というものです。
晴天の朝は冷え、霧がかかった木立には霧氷が見られました。
登山口から尾根に出る辺りは背の低い笹原となっていました。視認できる状況ですが、反応を見るために時々チャンスを意識付けます。
山伏山頂近くは笹原となり富士山をはじめ多くの山々が姿を現します。
山伏山頂周辺は絶好の展望エリアで多くの登山者が集まっていました。南アルプス南部の山々が眺められます。光岳~茶臼岳、上河内岳、聖岳、赤石岳、荒川~悪沢岳、前衛の笊ヶ岳、そして北部の北岳の一角の姿を見ることもできました。
上河内岳(左)と聖岳~奥聖岳。
山伏から大谷崩上部の新窪乗越へ向かう途中、チャンスの反応を調べましたが、手がかりにつながるような嗅覚反応は見られませんでした。
同行のTさんは、大谷崩れを下降したあとの私たち(Tさんと私とチャンス)を下山口で迎えるために、出発した登山口に戻るために途中で別れました。大谷崩れ下の車道までは、山伏登山口から何10kmもの林道を迂回しなければなりません。
新窪乗越に着く頃(12:57~13:15)、晴れていた天気も一変、稜線付近にガスがかかるようになっていました。
2007年11月22日
この捜索については、捜索犬が関わる前に、地元の山岳会の方々が捜索に入り、滑落等の事故遭難も考慮して危険箇所を含む多くの場所を調べてくれていました。詳しくは、リンク先の静岡の山と渓 一週間で2件の遭難からの記事をご覧ください。
遭難者のご家族から資料をもらい、静岡県警の山岳救助隊長N氏と相談して、11月22日と23日(2007年)に犬を連れて捜索できることを伝え、22日はN氏を含む県警の方と安倍峠~八紘嶺周辺を捜索することにしました。
もちろん、この周辺は人による捜索が済んでいるところですが、犬を使って何か反応がないか、という家族の願いを再調査するものでした。
これとは別に、23日は静岡市岳連の方と、異なるエリアを犬と一緒に捜索してみようというものでした。こちらも、既に捜索したエリアを視認できなかった部分の反応を見ます。
静岡県警山岳救助隊員との捜索
早朝に梅ヶ島温泉で合流し、現在までの捜索の状況を伝えて確認し、今日のルート等について検討しました。こちらも現地の様子が見えないので、遭難者の行動を考える上でも車の止まっていた安倍峠から、イニシャル付テープのあった場所などを確認する必要を感じました。

22日の再捜索ルート。遭難者の車が止めたままになっていた安倍峠Pから八紘嶺まで登り、途中まで復路を下り、梅ヶ島温泉への道を下降しました。

県警救助隊長Nさんと八紘嶺への道を辿ります。標高600m付近は北側の谷が深く崩れ落ちています。

途中の北側斜面の奥の方に「回収できていない遺体(行方不明者とは関係ない)」があるとのことで、時折臭いを気にするようなことがありました。

途中から初冬の富士が姿を現します。

八紘嶺手前のピークに至る斜面からは、安倍川とその周辺の山々が一望できます。

八紘嶺山頂にて。
登山道の道の周辺の気になるところをチャンスに探らせながら歩みましたが、反応は見られませんでした。
下山路は安倍峠Pまで戻らず、分岐点から梅ヶ島温泉下降するルートを辿り、笹薮周辺を探りながら下りました。
梅ヶ島温泉でご家族に会い今日の捜索の様子を報告、県警のN氏と23日の同行者と捜索ルートについて確認し、明日に備えました。
八紘嶺方面行方不明者捜索の依頼
その捜索依頼は行方不明者のご家族からでした。通常、山の行方不明者の捜索依頼は、地元の警察、消防関係者そして地元山岳会などに入ります。捜索犬というものの存在を行方不明者のご家族は知らないことが多く、そのほとんどは警察、消防関係者による捜索で発見に至らず、ご家族の「なんとか見つけたい」という願いからいろいろな情報を伝って、捜索犬関係者に入ります。
先の記事で綴った山形の捜索もそうでした。
そして、先月29日の静岡安倍川源流域の捜索も、その1年前に遡った出来事から始まります。
昨年の11月18日、ちょうど捜索犬の訓練を終えた頃(15:48)に携帯に連絡が入りました。
「静岡県警のNさんからWさんのことを紹介して頂きましたMと申します。父が山で行方不明になっていて、捜索に協力してほしいのですが…。場所は八紘嶺(はっこうれい)です。Nさんからも連絡が行くと思いますが、よろしくお願いします。」
このような連絡を受けた場合、何処の山か、どのような状況で行方不明になったか、現在までの捜索の状況等々について聞き出します。それでも、電話での情報は十分にできないので、必要な情報を書いてもらいFAXなどで別に送ってもらうようにしています。
N氏は、これよりさらに1年近く前の静岡安倍川流域二王山での行方不明者捜索(2006年12月23~24日)の際に捜索本部におられ、いろいろとお世話になった方でした。そのNさんが、捜索犬をやっている私を行方不明者の家族の方に紹介してくれたのです。
八紘嶺とはどのあたりか
静岡の安倍川上流にある八紘嶺とはどこか。私は、その昔車で梅ヶ島温泉付近まで入ったことがありましたが、八紘嶺山域には行ったことがありませんでした。静岡の山は、安倍川、大井川と大きな川の上流に多くの山々が存在しています。一昨年の二王山の捜索で感じたことは、標高こそたいしたことはないが「山が深い」「斜面は急峻」というものでした。
一度迷えば、里に戻ることのできない危険や死と隣り合わせの山ともいえます。
その後、静岡県警山岳救助隊のN氏から電話(18:18)が入りました。その概要はだいたい以下のとおりです。
★11月7日に家を出ている。9日に家族から捜索願いが出され、翌日の10日から、警察、消防分団など30人体制で捜索したが、10日経った現在見つかっていない。安倍峠に車が残されている。八 紘嶺への道は良く、地元小学校の遠足にも使われ、途中の落ちそうな谷も全て調べたが落ちていない。八紘嶺直下の一角に、本人のものと思われるイニシャル記載のテーピングが見つかっている。八紘嶺方面に入ったことは確かなようだ。
「他に何か必要な情報はありますか」と言われたので、今まで捜索したエリアを知りたい旨伝える。
「本人がパソコンに残した詳しい地図があるのでダウンロードしてもらえる、すごく大きな地図です。ご家族は、昨日、本日と山に入って、現在電車で帰路についていると思いますので、明日にでも連絡がとれると思います。」
こうして、捜索犬を使った安倍川源流域八紘嶺方面での行方不明者捜索が始まりました。
この遭難も、今までと同じく、家族や周りの人に「登山計画書」や「予定表」が出されていない、登山ルートが全くわからないというものでした。その捜索は、「推理」「推測」だけが頼りです。
仮定に基づく捜索範囲は無限大
仮定に基づき、考えられる行動ルートを想定し、その周辺あるいは道迷い下降ルートをさらに推理していくと「キリ」がありません。その中から、より可能性の強い「遭難ルート」を考えながら… そこへ入ります。
昨年(2007年)の11月22日、23日、12月2日、12月16日と延べ4回、チャンスを連れて八紘嶺山系を歩きました。
しかし…
広大なエリアが絞り込まれない限り、発見は至難の業であることは、今までの経験でわかっています。それでも、「もしかしたら」という希望を捨ず、遭難エリア到達という「運」を願いながら、捜索が続きます。
一年後の捜索
先週の29日、静岡の安倍川上流安倍峠近くの山へ捜索に行ってきました。
捜索とは言っても、何の手がかりもないまま1年が経とうとしている行方不明者の捜索です。
通常の捜索とは違い、手がかりとなる遺留物、そして願わくば遺骨発見につながる「かも知れない」、「もしかしたら・・・」という願いを込めた捜索です。
道無き道、藪漕ぎ覚悟の山道へ入ると、そこには獣道があり、そして…
熊が自分の縄張りを示す生々しい爪痕に遭遇。
そして、獣道の一角には真新しいクマの糞が…。
昨年何度か一緒に捜索に同行頂いた安倍川流域の山に大変詳しい静岡市岳連の方に聞いたところ、この辺には「冬眠しないクマ」が1頭生息しているとのこと。
さらに、爪痕写真から「樹皮下の柔らかな部分を食べている」「爪だけでなく、多数の歯の痕が見られる」、 そして爪痕は、「樹脂の出具合から、3、4日から1週間以内のもの」とのこと。
また、糞は「写真で見た限りでは、排泄されてから(水分・写真の濡れた感じ)1時間前後のように見える」と教えてくれました・・・。
藪尾根も高度を上げれば所々に美しい紅葉が現れはじめるのですが…。
我々が尾根末端を登り始めた頃、この辺りをクマがうろついていたのかも知れません。
さて、今回の捜索の経緯などについては、またあらためてお伝えしたいと思います。
山の行方不明者捜索 山形 XⅡ
何故? 沢の出合で反応がなかったのか
行方不明者の遺体が発見された場所は、29日の午前中(9時17分~34分)入った二股から上流、標高差80~90m、距離にして280mほどの所でした。
犬が遭難者(遺体)の臭いを感じてもおかしくない距離ですが、チャンスが何かを感じたり気にするような反応はありませんでした。
反応しなかった理由について、私は2つの原因があったと考えています。
まず、当日の天気と風の状態です。
5月29日の現地の日の出は4時20分頃で、朝から天気は穏やかで快晴無風。天気図(下記: 気象庁資料より)を見ると、移動性高気圧が東へ去りつつありますが、まだ高気圧圏内であることがわかります。
谷の下流が風上
陽が昇るに従い気温も上昇、強い日差しが当たり始める山の上部斜面から熱せられて行きます。暖められた斜面の空気は周辺より軽くなり、上昇気流となり、谷間の空気を吸い上げるように谷斜面の空気を移動させます。
午前9時~10時の日射の具合は、捜索「山形Ⅲ」に示したように山全体近くまで達し、谷壁~山斜面では強い上昇気流を生じさせ、谷間を下流から上流に向けて流れる気流をつくり出していたと考えられます。
これは「谷風」と呼ばれる現象で、山間部の日中によく起こります。
チャンスと捜索しているときは、肌で感じるほどの風(気流)はありませんでしたが、、谷のつくりや、日射の様子と午後に至る気温の上昇などを考えると、谷全体では下図のような空気の流れがあったと思われます。
この現象で、遭難者からの浮遊臭が下流に流れて来ず、二股地点で臭いを捕らえることができなかった大きな原因と考えます。
水流にも臭いがなかった
人の臭い物質が、水に溶け、流れることが知られています。遺体であっても、その臭い物質が水とともに流れてきます。
実は、チャンスには「擬似遺体臭」を使った訓練を施してあり、生体、遺体に関わらず捜索することができるようにしてあります。
しかし、二股の水流近辺を捜索させたとき、何の反応も見せませんでした。
その原因が、発見されたご家族の話からわかりました。
すなわち、遭難者は沢筋から離れたところにうずくまり、沢の水に触れてはいなかったのです。
したがって、沢の水に遭難者の臭いが溶け込んで流れてくる状況にはなく、臭い反応がなかったものと考えます。
最後に
実は今回、発見された沢の出合(二股)まで捜索に入りながら遭難者の臭いを感じ取れなかったことに、一時自責の念を感じました。
しかし、どんなに近くに居ても「浮遊臭」を運ぶ風(気流)が流れてこない限り、捜索犬は探せないことを再確認し、また水流にも臭い物質が溶けていない原因も知ることができ、「犬やハンドラー(私)に問題があったのでは?」という不安について、答えを見い出せ、正直少しホットさせられました。
では… 何故その先まで登らなかったのか?
これについては、すでに述べたとおり、実際に沢を遡行してみればわかりますが「雨の中、この沢を登って行くことは無理があり、あり得ない」と判断したからでした。しかし、気持ちとしては悔やまれます。
まさか「上部のどこからか入って来るかも知れない沢」という考えまで及びませんでした。
こういった結果や理屈も、行方不明者が発見されて初めて導かれる事柄です。
今回の捜索と発見への流れは、「可能性のある遭難ルートをどう推理推測して行くか」「可能性のあるエリアの風下にどうアプローチすればよいか」等々について、多くの知見を得るものになりました。
しかし…
今回のような事例とは別に、「遭難エリア情報のほとんど無い」山の行方不明者捜索というのが、実はとても多いのです。
それについてはまた後日に。
山の行方不明者捜索 山形 END